昭和47年1月3日   朝の御理解
                       末永静行(№47-001-A-2)B-1つづき



御神訓一、
「信心は本心の玉を磨くものぞや。」
「若いい者は本心の柱に虫をいらせなよ。」

信心とは本心の玉を磨くものだと、ここに極まった、そういう表現ですね、同時にその次に若い者は本心の柱に虫をいらせなよと、何でも虫がつくというのは若い植物でも、ね、芽がでてまだ柔らかい、いうなら、時に虫がつきますと、それは育つ事が出来ません、もう大きくなりましてね、虫がついたぐらいな事は案外平気ですけれども、若い時に虫がついたら、虫がつきやすいと。
例えば事でございましょうが、ここにもやはり本心の柱とこう本心と仰っておられる、信心は本心の玉を磨くものという本心ということ、ね、お芝居なんかでもよくつかいますよね、本心に立ち返ってなりというのがあります、だから、本当の心というのは素晴らしい物だということですね、ね。
本心、例えば悪い事を考えたり、悪い人に対して言うセリフが本心に立ち返れとこう言う、人間の、いわゆる、その性、善なりといったような事がありますよね、本性が、いわゆる、善だと本当は、その本心をです、ね、いよいよ磨いていくと、ただそれだけではなくてそれをいよいよ磨いていくというところに信心があるわけです。
人は、人間はみな神様の氏子、神様の分御霊と、ね、だから、もう生まれながらにして、いわば、神というても良いのです、それが(       )、いわば、似てもにつかぬ心に変わり果てていくのが人間の我だと思います。いわゆる、我情我欲がないものはないといわれるような事になってくる。
そこで、本心の玉を磨くという事は、まあ、言えば、我情我欲をとるという事を(        )、本心の玉を磨くと、磨くというて、ね、やはりどのようにして磨いていいか分からないという人がたくさんあります、例えばいろんな難儀な問題があり、その、いわば、難儀を砥石として磨いて、いわゆる、神の難渋を束にしてあれなんです、けれどもそう言う中に難儀があるから玉磨くじゃなくて、神様を通して、難儀を通して、その難儀の実体、難儀の実相ですね、難儀の実相を本当に見極めさせて頂いて、分からせて頂くものはです、ね、まあ、言うならば、どうしてこういう事が起こってくるということじゃなくて、それは当然の理としての難儀であります、いわゆる、起こるべきしてやっぱ起こっておるのです、だから、なぜ起こったかというその元を辿らせて頂くところに本心の玉を磨くという事が出来る事になるのです。
そこで、例えば雷とか難儀とかが人間の、いわゆる、本心の本心を足らしめる、本心に立ち返らせる、ね、しかも、それをあらゆる材料を頂いて、その事を通してそれを磨く材料にする。
だから、ここには磨くという事と改まるという事は、一輪したものでなからなければならないという事も分かります、そのことを通して、それによって磨く、それによって改まるという事がいえます、その事を通して改まる、そのことを通して磨く。
私、今日御心眼に御祈念中にまだお正月の(       )廊下に一緒にだしておりますが、御神酒と昆布スルメをこうおいて、今年はいつもよりかだいぶんたくさん作ってあったのに、もう元日の日だけ売れ切りしてましてね、もう二升がきれいに空になった、いわゆる、三本も入った、スルメ昆布なんかはもう(    )全然なくなった、(      )なかった、ね、もうたくさんつかった事は有り難い事ですね、たくさんなお参りがあったという事なんですから、あの、金樽がこうおいてある、そすと昆布とスルメをおいてある、そこの場面を今日御心眼に頂くんです。
どういうことかと私は分からなかった、そして、今ここで頂くのが信心は本心の玉を磨くものぞや、または若い者は本心の柱に虫をらせなよと言う、特に本心、本心と言うところに焦点におかれておるようでございますから、ははー今日私がお知らせを頂いたのはこのだったなあと分からせて頂きました。ね。
まずなんといってもね、スルメ、スルメなくして昆布にはならない、分かるでしょうどう言う意味か、皆さん分かるでしょうね、いつも御理解を頂いてますから、スルメなくて昆布にならない、私は正月にはそう言うやっぱ演技があるのかもしれませんですね、スルメという事は、言うならいっちょするめと、いわゆる、こう言う悪い事はもういっちょするめと言うわけなんです、自分で気がつかせて頂いて、はーこんな事では人間が幸せになれないぞと教えを頂いた、こんな事ではいけない、ここは一つ改まらなければと思うた、もういっちょするめという事です、改まる、スルメのお知らせはそういうふうに頂いた。はんじゅもんのようなことですけど、ね、ですから信心をさせて頂いて御教えを頂くという事は御教えと言う鏡を前に立てるわけですから、自分の汚れておるところ、いけないところ、かっこ悪いところがきれいに映し出されるのが御教えと言う鏡なんです。
ですから、はーこれではおかげが頂けないはずだなと気付かせて頂いて、なら、気付いただけじゃいかんから、それを汚れておるならばきれいに拭かなければなりません、まがっとるならば真っ直ぐしなければいけません、ね、それを改まり、それがスルメ、ね、その改まりなしにはね、絶対喜びは頂けない、信心の本当の喜びというのは、ね、信心の本当の喜びいうものはね、改まらなければ本当の喜びはない、いわゆる、スルメと昆布である、ね、スルメがあってはじめて昆布、スルメという事をいっちょスルメというようなふうに改まるという事、そこからです、ね、これは自分で喜ぼうと思わんでもこれは神様がやはり喜んでくださるのです、私共が改まるという事は、神様の喜びが私共の心の中にどこから湧いて来るか分からん有り難いと言う心が、いわゆる、喜びの心、昆布とは喜びのこと。
金樽のお知らせを頂いたのはもうこれはなんと言うても日本一の、誰がなんと言っても日本一番、昔からですね、一番最高といわれておりますがやはり菊正宗でした。これは私が酒屋を知っておる専門的に言うてそうです、もう菊正宗の(     )許さないです他の酒は、ね、これは菊正宗の独特の匂いがあるんです、だから、まあ、いうなら、良い水の、しかも金樽と言うのは菊正宗の(      )一番最高のものなんです、一升が三千円もするのですから、最高のもの、金談の菊正宗のこう、頂いたと言う事がです、いわゆる、有り難き、勿体無き、畏れ多きと言う、いわゆる、有り難いと言う心という意味に私は今日頂きました。ね。
私は思いますのに、私が助かるという事のためならばね、なるほど信心は私は極言していつも申しますけれども、信心とはもう私が助かる以外にはないのだと思いますね。教祖様が此の方の道は人が助かることさえできればと仰った、教祖御自身が、ね、人が助かる事さえ出来ればという事はね、もう、自分だけが助かれば良いという意味じゃなくてね、自分自身がいよいよ助からなければ人は助からんのです。
だから、教祖の神様のただ助かる事さえできればという事は、いよいよ教祖金光大神その人がいよいよ助かっておいでいられるという事、まあ、助かるということになって力を受けるということも良いでしょう、ね教祖ご自身がいよいよ力を受けていかれるから、ね、その力に縋るもの、必ずその力によって救い助けて頂く事ができるのです、人が助かる事さえできればというのは私自身が助かるという事、ほんな自己主義、自分だけが助かりゃなんてんと言う表現はちょっと悪いようですけれども、私はそう思います、人が助かるという事は大坪総一郎、私自身が助かる事だと思うております、いよいよ本当に。ね。
ですから、まあ、ここで申します、陰で人を助けよとか、人を助けるということが有り難いと心得て、と別の御教えにございますね、人を助けるとか、ね、人を助ける事が有り難いとか、陰で人を助けよとか、ね、いかに陰で人を助けようとも思うても、人を助けれる事が有り難いと分かっておっても、いわゆる、自分自身が助かっておらなければ人は助かれんのです、私はそう思うです。だからね、おかげを受けるというけれども、例えば、病気ですから助けてください、お金がないお繰り合わせをお願いします、まあ、そう言うおかげならね、私は別に本心の玉を磨かなくたって、ね、改まらなかったって、そう言う程度なら私はおかげを受ける助かると。
だから今日私が皆さんに聞いて頂きたい根本のところはです、ね、人が助かるの助かりを頂きたいと念願するわけであります、自分達一生懸命拝みよったけん病気が治った、一生懸命で商売が繁盛したと、そう言うおかげではなくてですね、人が助かるほどしの助かりを頂きたい、それなら、いよいよ信心とは本心の玉を磨くものぞやともうそこに、いわば、極まった、信心とはそうなんです、ですからね、楽しいのです信心は、自分が改まっていけれる。
親鸞聖人様のお弟子に道元というお弟子がおりました。この人はだいたい山口県、いわゆる、当時の、いわゆる、新興宗教である、しかも、もう、奇抜というたらこんな奇抜な事はない、ただ南無阿弥陀仏を言うたら極楽が出来ると説かれた親鸞聖人がですね、いわゆる、お徳と言うか、教えに帰依して、親鸞の弟子になる訳です、ね。
だから、親鸞を殺めよう、親鸞を殺そうとかかったわけです、ところが、どうしてもそのお徳といいますかね、親鸞の帰りを山に待ち受けて、そして、弓矢をもって、まあ、殺そうと致しますけれどもです、確かに、その山を歩いておられる親鸞の南無阿弥陀仏の声が聞こえるからと思うて、上のほうへ上がりますと、谷間の方で南無阿弥陀仏の声がしたと言う、あー下を通ってるなと思うて下の方へ下りていくと、もうまた上の方に念仏の声がしたと、とうとう一晩中尽きる、ついたけれども、いわゆる、殺す機会をなかったわけです、そこに、いわば、親鸞の徳に、いわゆる、平伏して弟子になりました、いわば、弟子入り、山伏を止めまして親鸞の弟子になった。
ある時に、親鸞の外出しておられる時にお帰りが遅いからお迎えに出た、(    ) 自分が何年前に親鸞を命を狙ったその山に参りました時にその考えを歌にした、「この山も道も昔と変わらぬ 変わり果て足るわが心かな」と歌った、人を殺そうというような浅ましい自分がです、今はその南無阿弥陀仏のおかげで親鸞聖人様のおかげで、ね、いわゆる、自分も、いわゆる、仏、本当の仏様にならせて頂く修行をしておる自分自身の変わり果てた姿にです、涙しておるという歌なんです。ね。
私は本当に信心を頂くという事はです、やはり変わり果てなければ駄目です、ね、いわゆる、脱皮なんです、いわゆる、(    )が二人みえるようにならなければ駄目なんです、でなからなければ今日私がいう人が助かるほどしの助かりという事にはならないと思う、なぜですね、人が助かるほどしの助かりにならなければならないかと言う事はです、ね、子孫にも残り、ね、あの世にも持っていけれるというものを頂かなければ、ね、信心の値打ちはないと私が思うからです、私が一代一生懸命信心させてもろうて、一代だけではおかげを受けて、大繁盛のおかげを頂いたと致しましてもです、それは子に孫に伝わらなかったら値打ちはないです、けれどもそう言う信心があまりに多いわけです、ね、それをただ自分が助かる、ただ自分がおかげを受けたというだけに過ぎんからです。ね。人が助かるほどしの助かり、ね、それがお徳なんです、人が助かるほどしの助かり。
信心の稽古をするという事は私はそこに焦点がおかなければ稽古の値打ちはないと思いますね、ですから、まず自分自身が分からなければいけん、見る事、見る事、自分を見る事です、高橋正雄先生の有名なお言葉ですね、人じゃない、自分自身を本気で見てみさせて頂いたら、なるほど自分が助からないはずだ、おかげを受けないはずだ、自分がいつも不安悄愴であるはずだというものがです、いわゆる、心配の元、不安の元。難儀の元言うのが自分自身の心の中にある事が分からせて頂くという事がです、自分の本心を見極めた時なんです、それでその本心をいよいよ光り輝くものにしていこうと言うところに信心があるのです。それには自分が変わっていくいく姿というか、ね、自分がいよいよ有り難く変貌していくそのことをです有り難いのであり、楽しいのである。
そういう私は信心にならせて頂くという事が本心の玉を磨くという事であり、または本心の柱に虫をいらせなと仰せられる、本心の柱に、いわば、虫が寄りかからないようになる、いや、寄りついても、ね、それをいうならば、本心の柱につく虫とでも申しますか、その虫の言うわくに負ける事はないおかげを頂かれると思うんです。
子孫にも残り、本当に代まさりのおかげを頂いて行くことのために私共が信心をさせて頂いておる、合楽にご縁を頂いた、そこからです、いよいよ、本心の玉を磨くものと、いわゆる、磨く楽しみ、改まらせて頂く喜び、私共が本気で磨かせて頂こうという気にならせて頂きますと、磨く材料はいくらもあるのです。
せっかくの例えば、神様になれるほどしの、まあ、心を頂いておりながら、それを似てもにつかんものにしてしまう、いわゆる、変わり果てるというても反対な方へ変わり果ててまいります、いうなら、人間の性が変わってしまう、それこそ、この人は犬畜生にもおとり果てたひとだとか、または、人間の顔はしておるけれども、心は鬼か夜叉(やしゃ)だと、いわゆる、人間獣心、というほどしに変わってしまうのです、油断をしておると、ね、もう汚れて汚れて汚れはてましたらですね、いわば、性が変わるのです、それで、終わらなければならない、終わっていく人がどれだけ多いか分かりません。
私共はそれぞれ、様々な縁の一口あつれましてもです、願うところ、ね、求めていくところは、今日申しますような、信心とはもういよいよ本心の玉を磨くものぞやと言うところに思いをおかせて頂いて、本心の玉をいよいよ磨いていくということにです、日にち精進させて頂いたら有り難い、ね。
本来頂いておる本心、いわゆる、本心に立ち返る、しかんも立ち返るだけじゃない、それを磨いていこう、そして、有り難い、勿体無いの生活をさせて頂こう、その有り難い、勿体無い、畏れ多いの心におかげは、それこそ、止めども尽きぬおかげが頂けれる、しかもそれは子孫にも残る、あの世にももっていけれるというほどしの尊いもの。
そこで、今日私が御心眼に頂きました昆布とスルメの事をね、一つ思うて頂きたいと思います。私共の心の中に検討いたしますと、これでは助かるはずはないといったような心があるんですよ、ね、もうビックリするような心が自分の心の中にあります、それを、いわゆる、こういう事はいっちょするめと言う信心にならせて頂いて、初めてそこから与えられる喜び、その喜びに浸らせて頂けれる最高の、言うなら、金樽のお知らせ頂いた、最高の喜び、信心の喜び、そういう喜びを目指して行くために、いよいよ、改まらせて頂くという事、同時に、せっかく改まったのですから、虫をつかせるようなことになる、ね、あらゆる、光を得て、そのことをもって磨いてくという信心。
まあ、とにかく信心とは本心の玉を磨くものぞやと、ね、此の方の信心は病気治しや災難よけの神ではない、心治しの神じゃと四神様は仰っておられます。そういう心治しという事がとりもなおさず、ね、改まる事であり磨くことである、ね、それをおいてです、どうぞ、おかげを下さいと言うおかげはね、それは束の間のおかげであります、頂けますそれでも、悪人でも、どんなに(     )のある人でも、いわゆる、お願いしますというてお取次を頂いたら助かります、いわゆる、束の間のおかげではせっかくの信心させて頂く値打ちがない、ね、その為に一ついよいよ自分自身が本当に助かる事のために信心をしなければならない、その本当の助かりとは人が助かるほどしの助かりを言うのであります。
                       どうぞ。